13thKansaiQueerFilmFestival2019
『クィアな仲間の作り方』作品レビュー

時々「やっぱり私たちってクィアだね」とふと肩の力を抜いて笑う瞬間がある

あやこ

邦題:クィアな仲間の作り方
英題: Thick Relations
監督:ジュールズ ロスカム Jules Rosskam
   85分|2012年|米国|英語

 この映画の原題は「Thick Relations」。直訳すれば「厚みのある関係」。監督の言葉を借りれば「Chosen Familyのこと」。“Chosen Family”という言葉がどのような意味で使われているのか、私はこれまで知らなかった。調べてみると、生物学的、制度的な“家族”からは排除されがちなクィアにとって、自分で家族を選択するというこの概念が必要とされてきたこと。血縁的な家族のつながりや繁栄に縛られない関係性のあり方としてクィアコミュニティで重要な言葉であることを知った。
 なるほど、なるほど。社会の中にある生まれや血のつながりだけが“家族”なんだということではなく、自ら選んだ関係性、家族のあり方、そんな厚みのある関係。この映画はそんなChosenなFamilyのThickなRelationを切り取った作品なのね。
 と、ここまで書いて、そんな感想で終わってしまっていいのか。とふと思ってしまう。そもそも私にとっての“クィアな仲間”って?この作品はドキュメンタリーとも物語ともいえない、日常の場面を切り取った作品ということはわかるけれど、そこには一体何があるの?この映画を観て、そんな疑問でいっぱいになってしまった気持ちをどう消化していいのか。

“クィアな仲間”って?

 そもそも、“クィアな仲間”とはどんな仲間なのか?
 奇抜な服装をしている仲間のこと?いわゆるL(レズビアン)G(ゲイ)B(バイセクシュアル)T(トランスジェンダー)だと自認している仲間のこと?正直なところ、それらが「クィアな仲間じゃない」とは言い切れない。友達が今まで見たこともないような服装をしていればクィアだな(もちろん侮蔑的な意味ではなく)とも思うし、みんながシスジェンダーでシスヘテロであるような雰囲気の飲み会よりも、みんながそれぞれのセクシュアリティを自己主張している飲み会はクィアな感じがする。同性カップル、レズビアンのイベント、日ごろの女扱いにうんざりした話、お酒を片手にそんな“あるある”で盛り上がる夜はとてもクィアでとても楽しい。
 けれど、時々「やっぱり私たちってクィアだね」とふと肩の力を抜いて笑う瞬間がある。それは決して見た目の話や社会的カテゴリーのことを指しているのではない。“私はこういう考え方なの”を各々に持ち寄っている感覚だろうか。そのどれもが、いわゆる世間の“普通”を持ち出さず、自分の考えであって自分の思うこと。「これが普通だから」と誰かに押し付けられたものでもなく、押し付けるものでもない。そして、お互いに驚いたり共感したり、時には互いに相容れない考えにモヤモヤしたりする。そして、ふと笑い合うのだ、「やっぱりクィアだね」と。それが、私にとっての「クィアな仲間」だと思うと妙にしっくりときた。
 一方で、そうしたクィアな仲間が成立する背景には、やはり“普通”という存在が前提になっているようにも思う。社会の中にある「普通は〜」「世間は〜」といったことへの居心地の悪さがあるからこそ、その枠に当てはまらないコミュニケーションに居心地の良さを感じられるのだ。けれど、社会の制度による家族、規範による家族といった関係に縛られる状況に対して、日常では少なからず加担もしてしまっている。現状の“普通”の押し付けに対する怒りや不満がある一方で、罪悪感もある。そんな矛盾した感情をそれぞれに持て余していて、それが共有できる相手と、せめて共有できそうだと思える相手と同じ時間を過ごし、言葉や体でコミュニケーションをとりたいと願う。この先も一緒にいたいと願う。
 この映画の登場人物たちも、映像にはならなかった場面、ふとした瞬間にそんな風に笑い合っているのではないかと想像してしまう。そんなたわいもない場面があるように思えて仕方ない。この映画の中では、登場人物たちのセクシュアリティや関係性について言葉での説明はされない。レズビアンだとかトランスジェンダーであるとかカップルだとか。そして、社会に対する明確な怒りや不満が描かれているわけでもない。そこには穏やかに緩やかに、けれど確かなつながりをもった仲間たちの日々があるということだけ。もしかすると、もっと先に、今の“普通”が“普通”でなくなれば、いろいろな名称は存在が薄れて、多くの人たちが、この映画「クィアな仲間の作り方」のような日常を過ごすのかもしれないとも思った。

映画のメッセージ

 この映画は、何度も書いているように日常を切り取った作品だ。けれど、私にとって印象的なシーンがいくつも織り込まれていた。例えば、コーラスの練習の場面。歌の歌詞“愛”を“クィア”と替え、「クィアはいつもわたしのそばに」と歌うシーンがある。それぞれにとってのクィア、そうした仲間、関係性が絶対にそばにあるんだと勇気づけられる。そして、自分にとってのクィアだけでなく、誰かにとってのクィアもあるんだということを気づかされる。だからこそ、私にとってだけでなく誰かにとってのクィアでもありたいと思う。観た人にとってのそれぞれの“クィア”を想像し、それがそばにあるんだと心に染みる場面だ。その証拠に、映画を観終わった後も、優しいメロディーと歌う人たちの表情が頭から離れなかった。
 そしてこの映画には、詩的な言葉のメッセージが含まれている。「あれは監督の個人的な誰かにあてたメッセージではないか」と言っていた人がいた。そうなのかもしれない。文章からは、失恋か、別れか、はたまた誰かを失ってしまったのか。穏やかでいてにぎやかなキラキラした日常を切り取った映像とは対照的に、少し哲学的な、でもどこか読み手を切ない気持ちにさせるメッセージたち。どうして監督はこのメッセージを込めたのか、その解釈はとても難しい。
 ただ私は、この仲間との楽しい日々と別れの対比にクラクラしてしまった。新しい出会いがあれば、別れもあるのだ、と思い知らされている気がしたからだ。それは自分にとって納得がいっていようと、納得していなかろうと。メッセージの中には、「切る必要なんてないのに」という言葉が出てくる。断ち切らないといけない関係はない、けれど自分の意志に反して、または誰の意志とも関係なく、断ち切れてしまうことがあるということを思い知らされる。
 この映画では、何か大きな事件が起きるわけではない。淡々と日常が切り取られている。だからこそ、ゆっくりと丁寧に自分の気持ちに耳を傾けてみれば、意外にもこの映画を観ながら気持ちは浮き沈みをしていることに気づく。楽しんだり、安心したり、切なくなったり。そして、バラバラと散りばめられているような日常の切り取りが、最後のメッセージによって、一つに終着するような気がしている。気心の知れたクィアな仲間たちと過ごす日々、そして別れの辛さ。そのどれもが、ただ最後のメッセージでつながるのではないか。社会の制度や規範、そういうものじゃなくて一番大切なこと、そういう想いが込められているのではないかと想像する。
 是非、最後のメッセージは映画を観て確かめてほしい。あなたの仲間や家族にとって、それがどんな意味を持つのかを。




あやこ
2011年に実行委員として参加して以降、当日スタッフ、組織委員として関西クィア映画祭に関わる。
普段は心理学についての勉強とお仕事を少々。だからといって目の前にいる人の考えていることを透視できるわけではない。“人”を理解しようとする学問。世の中で起こっているポジティブなこと、ネガティブなこと、人に関わるいろいろなことを理解していきたい。
日光アレルギーなので、夏は日傘が必須。



『クィアな仲間の作り方』

クィアな仲間とは、目の前にある、「普通」とは異なる社会的つながりを共に想像できる仲間
岸茉利

時々「やっぱり私たちってクィアだね」とふと肩の力を抜いて笑う瞬間がある
あやこ


ロスカム作品レビュー一覧


クィアな仲間の作り方
►9/21(土) 16:35 すてっぷ『フィッツジェラルド、ここに眠る』と同時上映)
►10/19(土) 22:50 西部講堂(オールナイト)




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