17thKansaiQueerFilmFestival2025

『流れゆく 遠い道』大阪会場での質疑応答について
実行委員1人1人からのメッセージ りさこ


『流れゆく 遠い道』大阪会場での質疑応答についての、実行委員1人1人からのメッセージを掲載します。


りさこ

 2025 年の夏、参議院選挙の街頭で「日本人ファースト」という言葉が繰り返し掲げられ、外国人に関する不正確な情報や決めつけが、公然と語られる場面が多く見られました。国籍や出自を問わず、社会の雰囲気に強い不安や失望を覚えた人も少なくなかったでしょう。
 外国人に対する排除や軽視は、形を変えながら、長い間この社会に存在してきたんだと、関西クィア映画祭に出会うまであまり考えてきませんでした。関東大震災時の朝鮮人虐殺や、近年のヘイトスピーチのような目立つ出来事だけでなく、日常生活や制度の中にも、気づきにくいかたちで組み込まれてきました。
 その背景には、「植民地主義」と呼ばれる考え方があります。これは、ある人々を「劣っている」と見なし、支配や管理を正当化する発想です。この考え方では、人の命や人生が平等に尊重されません。戦争が終わった後も、日本社会のさまざまな場面に影響を残してきました。トランスジェンダーの人、障害のある人、被差別部落の出身者など、“フツー”とされる枠から外れた人々の生き方が軽んじられてきた歴史があります。差別は、単に不快な思いをさせるだけでなく、生活や人生を壊し、時には命を奪うことさえあります。
 現代は多様な意見に触れられる一方で、誤った情報や偏った見方も広がりやすくなっています。事実に基づいて考えるのではなく、自分の考えに合う情報だけを信じてしまう状況も見受けられます。

「流れゆく 遠い道」を観て
 いわゆる“フツーの日本人”としてこの映画に向き合うと、「自分が直接何かをしたわけではない」と感じながらも、「歴史の中では加害の側に位置づけられている」という立場に立たされ、どう受け止め、どう振る舞えばいいのかわからず、戸惑いや苦しさを覚えることがあるかもしれません。
 被害を受けた人たちの思いに向き合ったり、なぜこのようなことが起きたのかを考えたりする前に、まず自分の中に生じた不快さや居心地の悪さを何とかしたい、という反応があります。ごく自然な普通の反応ですが、歴史における加害―被害の関係を考えるとき、「普通でいられること」自体が、マジョリティの特権だと気づかされます。
 「もう前向きにやろう」「いつまで過去を引きずるのか」「明るく伝えてくれたら理解できるのに」といった態度は、一見すると露骨な差別的意見には見えないかもしれませんが、被害や差別の歴史を語る側にのみ「乗り越え」や「分かりやすさ」を求め、構造的な不平等から目をそらしてしまっている、そうした態度が、日本社会で長く続いてきた在日コリアンへのレイシズムの一つだと思います。
 私は、クィアとしてマイノリティの立場にありますが、それと同時に、健常者でシス女性のいわゆる“フツーの日本人”というマジョリティの立場でもあります。
そんな私が、日本の「植民地主義」「排外主義」「在日コリアンに対するレイシズム」について、どう思うかと問われたとき、自分自身が無知・無関心で暮らしていたことに自覚させられました。上記の反応は、私の中にもあります。ただ私は、たまたま知るきっかけを与えてくれる人や出来事に出会うことができました。自分がこれまで当たり前のように享受してきたものは何だったのかを振り返り、反対に、国籍や出自、性別、障害などによって、努力する前の段階ですでに選択肢を狭められてきた人が大勢いる、という現実を知る機会があったにすぎません。
 自分自身が経験したことがなく、これまで考える機会もなかった場合、差別の存在を想像することは簡単ではありません。しかし、私たちの社会には気づかないまま続いているレイシズムが、現実として存在しています。その事実から目をそらさずに向き合うためには、自ら進んで学び、理解しようとする姿勢が欠かせないと思っています。「エンパシー」は日本語では「共感」と訳されることが多い言葉ですが、ただ相手の感情を受け取ることではありません。知識を得ながら、相手の立場や背景を想像し、自分のこととして理解しようとする能動的な行為であることを改めて実感します。



『流れゆく 遠い道』大阪会場での質疑応答 当日の発言(文字起こし)

実行委員1人1人からのメッセージ

サイト検索


SNS

 Twitterロゴ Twitter

 Facebookロゴ Facebook

 インスタロゴ Instagram

 YouTubeロゴ YouTube

 KQFFロゴ 公式ブログ


ページのトップへ戻る