特別上映『鏡をのぞけば〜押された背中〜』
►9/23(土) 開場18:25 開演18:40 ヴィラ鴨川
カフェを間借りして占い師をする、ともね。ノンバイナリーでアクセサリー職人の、けん。女性として生活したいという、オジサンになりかけの年齢の、あきら。本作は、この3人を軸に、街のカフェで、まわりの人を巻き込んで繰り広げられる物語だ。
「トランスジェンダーなんて所詮はまやかし。埋没しなければ惨めな人生。一生、女装、オカマと笑われる人生。」——ともねのこの発言のリアリティーを、表からも裏からもちゃんと表現しているのが、この作品の素晴らしいところ。それは、時に厳しい対立になる、埋没系GIDのトランスジェンダーと、ノンバイナリー系トランスジェンダーの両方の視点を、上手く物語の中に入れていることからも、分かる。誰にも、パスして生きたいという側面と、そもそも「男女という制度」に縛られて生きるのは嫌だという側面の、両方がある。当事者コミュニティーでも、常にこのせめぎ合いだ。
トランスジェンダーが置かれる状況とトランス差別をちゃんと描こうとすれば、実はこの両方の側面を同時に描かないといけない。しかし「トランスジェンダーを描く」と唄った映画の多くは、このどちらか一方にばかり片寄ったものである事が、ほとんどだ。そしてそれでは、真の理解には繋がらない。
だからこそ本作は、トランスジェンダーのリアルを、表からも裏からもちゃんと描いている、と言える。
トランス女性が作りトランス女性やノンバイナリーが出演するこの作品は、様々な状況を生きる様々なトランス当事者の1人1人、そして色んな事を諦めてきた全ての人の、「背中を押す」作品になるに違いない。
監督から
まだまだ言葉や情報やモデルなどの資源がLGBTQ+当事者たちや当事者ではない人たちにとって少ない今だからこそ、トランスジェンダー当事者がトランスジェンダー当事者をモデルにした動画という媒体での言葉や情報やモデルとしての資源を作り出していく事には、大変意味のある事だと考えています。初々しさの中に、トランスジェンダー当事者のリアルをぎっしり詰め込んだ作品です。
是非、最後までご覧ください。
河上リサ(かわかみりさ)
she/her
1982年 大阪生まれ。
元ニューハーフの精神保健福祉士。24歳で戸籍上の性別を男性から女性に変更し、現在は無知から来る偏見や差別に喘ぐトランスジェンダー当事者のリアルな姿を可視化すべく情報発信を行っている。
LGBTQ+の理解を育むショートムービー『鏡をのぞけば〜押された背中』の監督を務めた。
邦題:鏡をのぞけば〜押された背中〜
監督:河上リサ/Kawakami Risa
30分|2023年|日本|日本語
サイト:https://kagamiwonozokeba.wordpress.com/
【特別上映について】
本作品のみ、他の作品とは異なる「特別上映」とし、専用のチケットを500円で販売します。上映後に、監督に対してのカンパを、会場で募ります。ご自身の納得する金額を入れて下さい。
●なぜ「特別上映」なのか
本作品が、通常の上映方法ではなく、「特別上映」として上映されることになった理由は、以下の、当映画祭代表のひびのの文章をお読み下さい。
作品の内容について
私自身は、MtXトランスジェンダーを名乗ったり、最近ではノンバイナリーと名乗ったりする事もあります。
また以前は、私自身も、Mt系のトランスコミュニティーに少しだけ顔を出していたことがあります。
そんな私の経験からも、映画の中の場の雰囲気が、本当に「リアル」でした。素晴らしいです。人と人との距離感がぎこちない点を含めて、リアルです。
また、埋没系の当事者に対するエンパワーメントや解放をこんなにはっきりと日本の当事者が訴えている作品は、私は見たことがありません。
なんと言うんでしょうか、非トランスのマジョリティーに「分かってもらう」ための作品ではなく、明確にトランス当事者に向けて表現されている作品である、と感じました。トランス当事者からトランス当事者へのメッセージです。しかも、埋没系の当事者に向けたメッセージであること、当事者に寄り添いながらも、もう一歩前に出ようよと訴える、本当にピアサポート的な表現、だと感じます。まさに今、日本で必要な表現です。
また、なんと言っても場が面になっていること、孤立したトランス当事者が一人で頑張っている姿を描くのではなく、複数のトランス当事者たちが寄り添いぶつかり合いながらも集団で存在していること、個人だけでなくコミュニティーを描いているということが、とても重要だと思いました。それこそが、今トランス当事者に必要なことですし、エンパワーの元になるものだからです。
ですので、私は、この作品を上映しなければ、日本のクィア映画祭ではない、と感じました。作品の技術的側面について
ただ同時に、映画という表現の形式という基準、映像作品の技術的な基準から判断したとき、このままではかなり上映は厳しい、という判断になります。
例えば、全編に入っている字幕の文字は大きすぎます。映画は、文字(テキスト)ではなく映像で見せる表現ですし、だからこそ映画の字幕についてはこれまで沢山の試行錯誤が行われ、だいたいの基準が業界的にはあります。文字が映像の邪魔をしないこと、しかし必要な内容が見る人に伝わること、などを巡っての、業界としての蓄積の歴史があるんです。そして、それを明らかに無視して付けられている本作の字幕は、(この映像は政治的プロパガンダ映像だ!などと開き直る場合でない限り)映画のあり方としては不適切だ、という判断に、映画祭の主催者としてはなります。もし、この字幕のフォントとサイズに何か意図があるのでしたら、ぜひ教えていただきたいです。(ですので、ぜひトークでこの質問をお聞きしたい)
また、登場人物の人間関係のぎこちなさですが、私にはそれがリアルに感じられた面があるのですが、他の実行委員の中には「間のとり方が不自然」「登場人物が自分のセリフを自分のタイミングで発しているだけで、コミュニケーションを取っているように見えない」「会話のキャッチボールができていない」「身振りとセリフが合っていなくて違和感がある」などの意見を述べる者もいました。私には「まさにそれこそが、Mt系トランスっぽいありかたの描写」にも見えるのですが、でも確かに、映画やドラマとしてみたときには、そういう批判的な見方がされるのも、否定できないなとも感じます。実行委員会での議論
上記の通り、主に私が、作品の主題と意図などを強く評価する立場から上映を主張しました。しかし同時に、作品の主題や意図それ自体は肯定的に認めた上で、それでもこの技術的なクオリティーの観点から上映に反対する実行委員もいました。
映画の意図や主題を重視する立場は、私のような活動家に多い立場です。同時に、文化的芸術的な『見せ方』にこそこだわる立場からは、技術的な問題の方を重視して判断をします。元々こういった方向性の違い、何を優先するかの優先順位の違いを内包していることがクィア映画祭のいいところなのですが、ともあれ、両者の主張は平行線となりました。そして最終的には、冒頭に書いた「特別上映」としての形であれば上映したい、という結論に達しました。
これはつまり、観客が映画を見て判断する機会を実行委員会の判断で勝手に奪わないこと、最終判断は実行委員会ではなく観客の判断に委ねるのがよい、というような趣旨による決定です。
(文責 ひびの まこと)
♦全作品(日本語作品を含む)に日本語字幕をつけて上映します。
♦トークでの発言には、手話通訳もしくは日本語字幕がつきます。
♦Some non-English films will be screened with English subtitles. Please visit our subtitle information.