京都企画 - 日本のレイシズム—朝鮮人差別への無関心
京都企画・日時
- 【京都】10/13(土) 13:50開演 (13:30開場)
簡単な説明
例えばベルリンに住むイスラム教徒のゲイを描いた映画(『シャハーダ ーわたしの祈りー』2011年上映)。例えばトランスジェンダーの子供がいる在米ヒスパニック系家族の物語(『未来へつづく道』今年上映)。ある国の中での民族的少数派のセクマイを描いた映画はこんなに沢山あるのに(関西クィア映画祭でもたくさん上映しているのに)、なぜ日本にはそれがない?
「セクマイだって、同じ日本国民(日本人)。だから差別しないで」ーこんな、日本人・日本国民のことしか考えない言動は、「私たち」の間にも溢れています【一例】。関西クィア映画祭2010での『ウリハッキョ』(朝鮮学校を描いたドキュメンタリー)上映に引き続き、私たちの社会にあるレイシズム、特に朝鮮への差別について考えます。
参加方法
大阪-京都を通じて、関西クィア映画祭2012の何らかのチケットかパスをお持ちの方は、そのチケットかパスを入口で提示することで、無料でご入場いただけます。このプログラムのみに参加される方は、1回券をお求めください。
プログラムの内容
はじめに京都企画の担当者から、この企画の趣旨についての説明を行います。その後、映画祭に関係のある二人のメンバーから、映画祭参加者に向けての映像メッセージを皆で見ます。その後、映像メッセージの内容について、参加者とともに意見交換の時間を取ります。また、今後どのように「日本のレイシズム-朝鮮人差別への無関心」に各自が取り組んでいくか、映画祭として何ができるかについても、意見交換が出来る場になればと思います。
もっと詳しい京都企画の趣旨
例えばベルリンに住むイスラム教徒のゲイを描いた映画(『シャハーダ ーわたしの祈りー』2011年上映)。例えばトランスジェンダーの子供がいる在米ヒスパニック系家族の物語(『未来へつづく道』今年上映)。中国人と白人の同性カップルが二人でパートナーの中国人宅を訪問するとどうもてなされるかを描く短編(『七面鳥』・『フライドチキンの足』2010年上映)や、パートナーが移民局に逮捕されてしまった!さてどうする!な映画(『再会』2010年上映)などなど、ある国の中での民族的少数派のセクマイを描いた映画はこんなに沢山あるのに(関西クィア映画祭でもたくさん上映しているのに)、なぜ日本にはそれがない?
「性的マイノリティーであってもひとしく国民であることに違いはない」ーこの発言は、逆に言うと、日本国民ではない人は差別されても構わない、と言っているのと同じです。松浦大悟参議院議員のこの国会質疑発言(2010年)は、本来であれば「日本国民中心主義である」として明示的に批判されるのが当然である論外な発言です。しかし残念ながら、明示的な批判がコミュニティー内部で多数を占めることはまだありません。それどころか逆にこの発言を手放しで喜んでいるセクマイ系活動家さえ存在する、そのような状況が日本にはあります。
また、クィア学会幹事会が、日本語以外での学会発表を認めないという典型的なレイシズム・日本人中心主義を遂行したことに対しても、批判の声が巻き起こるわけでもなく、幹事会による謝罪や自己批判さえ今だに行われていません。
ここでは例を2つ挙げましたが、日本人・日本国民のことしか考えないこのような言動は、実は「私たちセクマイ系クィア系のコミュニティー」の間にも溢れています。
これはもちろん、日本社会全体がレイシズム/民族差別に鈍感である、ということの反映です。朝鮮や中国を始めとするアジアへの侵略や植民地支配を、日本社会全体として間違いとして認め反省していない、ということ。またそれ故に敗戦後も、朝鮮人をターゲットにした差別政策を日本政府が一貫して取り続けていること。琉球を併合した日本政府が今も沖縄差別を遂行していることや、アイヌ民族の先住権を認めない日本政府の方針にも、差別政策は一貫しています。最近では、日本人拉致問題や領土問題がメディアでも多く取り上げられていますが、それらの問題を実際に冷静に解決していくことよりも、それらの問題を利用して朝鮮や中国への憎悪や偏見を増長させるメッセージが、メディアでも頻繁に垂れ流される事態に至ってしまっています。
このような、多くの日本国民/日本人が日本政府の差別政策をあまり問題視して来なかった歴史的積み重ねの無責任さや、民族的憎悪を煽るプロパガンダがメディアに溢れる状況が、セクマイ系クィア系の場においても、いま、日本人中心主義の容認/黙認、という形であらわれているのです。
多くの異性愛者が異性愛中心主義に無知で鈍感であるように、多くの男性が女性差別に無知で鈍感であるように、トランスジェンダーではない人の多くがトランス差別が何であるかを知らないように。多くの日本人・日本国民は、自分たちが民族差別について無知で鈍感であるというその可能性にこそ、謙虚に向き合うべきだと私は思います。
「私たち」は、性のことについて自分と同じ立場の人に会いたい、安心して話したい、などと思って、性の話をする場所に集まりました。しかしそこで「私たち」が経験することは、自分と似たような経験をする人との出会いだけではありませんでした。自分と似てはいるけれども別の経験をする人たちとの出会い、それどころか自分が「鈍感な多数派」として他者を抑圧してきたかもしれないという気づき。そういうきっかけを得る可能性こそが、一人の人間として生きていくためにも、社会のからくりを変えていくためにも、「私たち」の最大の強みなのでないでしょうか。
「性をテーマにしたイベントに行ったら、とっても楽しかった!これまで考えて来なかったことにも気付かされたよ」映画祭をこんな場にするためには、「私たち」は何をすればいいのでしょうか。セクマイ系/クィア系のコミュニティー内部で民族差別を問う試みは、他にあまりお手本がなく、全てが手探りで進めている感じなのですが、「私たち」が何をできるのか/するべきなのか、共に考えるプログラムにすることが出来れば、うれしいです。
たかだか一度の映画祭に多くを求めすぎるのは無理な話ですが、それぞれの人が、いま自分のいる場所で、出来ることを少しでもしていくことが大切だと思っています。
(文責:ひびの まこと)